丸の内PARK-IN加盟
丸の内パークイン 新東京ビル駐車場 年中無休24時間営業
日本でいちばん最初に立体駐車場を作った会社です。
新東京ビル駐車場 × 丸ノ内ガラーヂ

車 高
2.1m
車 幅
2.5m
車 長
6.0m
車 重
3.0t
03-3212-4721
千代田区丸の内3-3-1 新東京ビルB2F
※バイク・自転車は駐輪できません。
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運営会社概要


新東京ビル外観
社   名 丸ノ内ガラーヂ株式会社
代 表 者 荻野 寿人
所 在 地 東京都千代田区丸の内3-3-1 新東京ビルB2F
資 本 金 1,000万円
創   立 1928年7月3日
従 業 員 数 15人
Marunouchi Garage Co. ,ltd.

丸ノ内ガラーヂについて

丸の内ガラーヂ歴史1
【日本初の立体駐車場の誕生】
昭和4年(1929年)6月15日、東京丸之内に、日本初の立体駐車場をオープン。
「ガラーチビル」という名称で、
鉄筋コンクリート6階建、延べ面積5,297.79u(1,602.58坪)の自走式駐車場でした。

場所は、現在の丸の内一丁目にある、「みずほコーポレート銀行本店」の北側。
当時は、東京市麹町区丸之内一丁目八番地という住所でした。

いわゆる「立体駐車場」と言えば、いまではワンフロアごとに分かれたものですが、「ガラーチビル」はめずらしくフロア半分ごとに互い違いの設計で、フェルドナンド・デューミー(アメリカ)が1919年に考案したものです。
当社の初代社長、水嶼峻一郎(みずしましゅんいちろう)が、デトロイトで見たものを改良して、「水嶼式自動車庫」として特許を取得しました。(実用新案第109323号)

この特許で、大倉財閥の新しもの好きな大倉喜七郎氏とともに、財閥総帥の大倉喜八郎氏を口説きましたが、ゴーサインはいただけませんでした。
そこで2名は、三菱合資会社地所部(現在の三菱地所)に掛け合い、丸ノ内ガラ−ヂ株式会社が誕生いたしました。

関東大震災後、
東京市内の自動車は1,500台、丸之内に出入りする自動車は400台、
その中で自宅に駐車するものが300台、料金を払って平面車庫に駐車するものが100
台と報じられています。
昭和5年には560台、昭和10年には800台になるとの想定でした。

総工費は、当時で409,190円24銭。
昭和40年に当社で記念に作成した、「ガラーヂビル」の縮尺模型と同じ費用でした。
36年間のインフレがよくわかります。
丸の内ガラーヂ歴史2
【ガラーヂビル開業】
開業当日の昭和4年6月25日、「朝日新聞」におそらく日本初の駐車場の広告が掲載されました。
いまとは逆に文章が書かれる時代で、
「本日開業」
「最新式六階建自動車車庫」
「250台収容」
「自動車の運転により各階へ上下出入自由」
「自動車置場料金低廉」
「ガソリンその他用品一切の販売、修繕、塗替、充電、保険、運転手休憩室、食堂の設備あり」
とあったそうです。

当時のパンフレットによると、月極駐車料35円以上、臨時駐車料1日1円50銭、
フロア別や車のサイズにより多少異なり、
商品車(展示販売の自動車)や中古車はさらに低料金、
洗車サービスも行なっており、料金は普通車50銭、貨物車80銭、小型車30銭、
ワックスは普通車1円50銭、
ということでした。

これは臨時駐車限定で、
当社のメインサービスとして、契約車両に対しては何度でも無料で洗車しておりました。
雨のあとには、すべての車両が洗車を希望しましたので、4、5人で洗車をしても夜が明けてしまうこともよくあったそうです。

当時は、車の絶対数が少なく、また道路交通法も整備されていなかったので、路上に駐車するのが当たり前の時代です。いくら斬新な立体駐車場ができたとはいえ、月極駐車料が35円というのは、関東大震災後の大不況時代の大卒初任給とほぼ同額、現在の20万円程度しましたので、お金持ちや大会社のステータスシンボルとしての需要がメインでした。

そういう状況ですから、料金交渉には柔軟に対応したそうです。

【ガラーヂ?】
ここで当社が「丸ノ内ガレーヂ」と、「ガレージ」ではなく「ガラーヂ」を使用していることについてお話します。

初代社長の水嶼がアメリカで駐車場を研究しておりましたので、英語の音をそのまま使用しております。
お電話や口頭ですと、ほぼ間違いなく「ガレージ」と判断されてしまいますが、いったん憶えていただけると忘れがたいようです。

ちなみに、「まるのうち」も、「丸ノ内」であって、「丸の内」ではありません。

【こんな契約車も】
開業1年がたち、業績不振を改善しようと、車と名のつくものは何でも受け入れることになりました。

庶民の足であった人力車、中央郵便局の郵便車、そして霊柩車。

東京市電共済組合の霊柩車で、深夜に巡回した宿直員が懐中電灯を向けると、最上階の一番奥にあった霊柩車に不気味に反射したそうです。
幸いなことに、幽霊が出たことはありません。
丸の内ガラーヂ歴史3
【東京大空襲の奇跡】
営業努力によって、ようやく57.6%の収容率になりましたが、まだまだです。
しかし、支那事変、大東亜戦争と続くうちに、だんだんと台数が増加し、国産車も出回るようになりました。

そして、東京大空襲が起きた1945年の3月。
東京中が焼夷弾になめつくされるなか、三菱地所設計、清水建設施工の「ガラーヂビル」は頑丈で、消火設備も充実しており、従業員が屋上に落ちた焼夷弾をホウキで叩き消し、収容していたすべての車を無傷で守りぬくことができました。

一方、路上駐車の車やガラーヂ以外の車庫に入っていた車は炎上し、爆発によって損害を受けました。

この奇跡の駐車場の噂は一夜にして広がり、丸の内に集中していた一流企業の契約車を数多くお預かりすることとなりました。

【終戦】
終戦とともに進駐軍がやってきて、倉庫に最適とされ、接収されそうになったこともありましたが、陳情によって、接収を回避することができました。

そして、大倉財閥解体により、ここから民主的な会社が発足します。

当時の社会情勢は、戦後の混乱のなか、復興とともに自動車が爆発的に増加していました。
ただ、治安も悪く、ガソリンやパーツの盗難から車を守る安全な駐車場がありません。
都心部にある唯一の駐車場、「丸ノ内ガラーヂ」には申し込みが殺到しました。
申し込みにはプレミアがつくこともあり、250台の駐車場が少しでもお客様を受け入れようと、2倍の500台の契約をお受けすることになりました。

どうして2倍の収容ができたかというと、当時は路上駐車規制が現在ほどではなかったので、治安のよい昼間だけは路上に車を出しておいて、夜になるとスロープまで隙間なく詰め込んでいたからです。
もちろん、ただ詰め込むだけでは朝がたいへんですから、出庫時間を聞いて、その順番で入れていたそうです。
現在では考えられませんが、当時はお客様も納得していただいたうえでの運営でした。

【ガラーヂビルの解体と出発】
やがて駐車場が充実してきたところで、昭和39年12月に、現在の新東京ビルに移転いたしました。

平成5年10月には、丸の内で初の全自動精算システムを導入し、
平成9年5月には、丸の内の駐車場で初のウェブサイトを公開いたしました。

業界のパイオニアとして、当社は歴史と誇りを持って、丸の内を見守り続けています。

そして、これからも駐車場業を通して、社会のお役に立ちたいと考えております。

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